父との別れ

ちょうど昨日で9回目の命日。
74才で父は亡くなった。はじめはずっと居なくなったとは思えなかった。
なぜなら、父は群馬、私は東京に住んでるので日常的に一緒にいないから実感もわかなかったのもあるし、身体という拘束がなくなったなら東京のこの空の上にいつでもいるんじゃないかって思えたから むしろ近くなった感じだった。


私にとって父の存在は大きかった。
幼少期のころよく、あぐらをかいた足に私を座らせて、テレビを見ている思い出がある。小さい頃から可愛がってくれたと思っている。

その頃は、うちも回り近所も貧しく、白黒の脚が4本ついたテレビが家にあるのは早い方だった。新しいことには敏感だったと思う。
家は蔵があり、敷地の広い400年以上も過去帳のある歴史のある地主の本家だった。
そこに長男として生まれて、小学校に入るくらいまでは坊ちゃんとして育った。
だったというのは、小学校2年の時に同じ年に母と父を亡くした。両方とも病死だった。
祖母は当時不治の病と言われた結核だったらしい。
甘えることができる両親が亡くなり、叔父一家が家に入って面倒をみてくれたのはよかったが、一緒に住んでいる同級生のいとこは高校、大学に行かせてもらえても、父は農業で必死に働くしかなかった。
小学校で学年で一番の成績になったこともあるのに運命を恨むしかなったと思う。
いとこは前橋で一番の高校を出て東京の大学から一流企業に勤めていた。

私が家を出てから、20歳を過ぎて初めて聞いた父の話は衝撃的だった。
19歳の時にあまりにもつらい人生を終わりにしたくて、嵐の夜に死に場所を探してさまよい歩いた話をしてくれた。
けれど、気が付いたらびしょ濡れで明け方親戚の家にたどり着いていた。
それで生きろということかと決めたと。

温厚でまず人の言うことを聞こうとする性格はそんなことがあったからだったんだと思った。私が中学生のときは、PTA会長として壇上ではなす姿がいやでたまらなかったけれど、教育に関心が強かったと思う。
私は父が泣くの見たことがなかった。泣くよりもつらい人生を生きてきたからか、いろんなことに挑戦し、自分の中に信念をもって生きる姿勢を見せてくれた父を尊敬している。
私も子どもが三人いるけれど、何を残すのかは生き方しかないと思っている。
父に恥ずかしくない生き方をすると、改めて命日に誓った。